ゴスペルとは

【おことわり】アフリカ系アメリカ人のことを「黒人」と呼ぶことが差別用語であるとも言われますが、ここでは、その文化や歴史にレスペクトを持った上で、彼らが誇りを持って自分たちを「Black」と呼ぶのと同じ気持ちで「黒人」という書き方をさせていただきます。ご了承ください。

私たちが「GOSPEL」と呼んでいる音楽は、アメリカの黒人教会で歌われてきた歌です。 誰か一人が歌い出せば、会場全体が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏んだりしながら、声を張り上げて全身全霊で歌います。

黒人社会が苦難の歴史を辿ってきたことから、「困難を乗り越えるための応援歌」と言えるような歌詞が多いといえます。聖書をベースにした前向きなメッセージが、人種や国境を越え多くの人の共感を呼んでいます。

また、ゴスペルという語の語源は、「God's Spell(神の言葉)」とも「Good News(良い知らせ)」とも言われています。

知っておきたいゴスペルの歴史
なぜ私たちはゴスペルを歌うの?

知っておきたいゴスペルの歴史 知っておきたいゴスペルの歴史

[注]ゴスペルは大衆音楽であるため、地域ごとに発展の仕方が違い、文献によって様々な記述があります。 ここでは、大まかなゴスペルの歴史をご紹介します。

第一幕:スピリチュアルズ(黒人霊歌)の誕生(1620s~1860s)

17世紀、アフリカ大陸から奴隷としてアメリカ合衆国に強制的に連れてこられた人々は、奴隷オークションで「所有物」として買われていきました。

彼らは人間としての扱いを受けられず、プランテーションなどで朝から晩まで労働を強いられていました。その奴隷制の中で、少しずつ白人の主人から聖書を教わる奴隷たちが出てきました。多くの場合、それは主人にとって「従順さ」を押し付ける格好の手段だったと言われています。聖書を知った黒人奴隷たちはその後、主人の目を逃れてひっそりと集まり、自分たちだけで歌って踊って祈れる場を作るようになりました。建物も何もないこの集会は「Invisible Institution」(見えない教会)と呼ばれ、アメリカ南部を中心に各地に誕生しました。「教会」とありますが、彼らにとってはそれは宗教的な役割だけでなく、お互いを支えあう地域コミュニティそのものだったと伝えられています。

その中で生まれた歌が、ゴスペルの原型である「スピリチュアルズ」(黒人霊歌)です。ハーモニーやリズム、コール&レスポンスのスタイル、即興性、これらの特徴には、彼らの故郷アフリカの伝統が色濃く反映されています。歌詞においては、「Code」(コード=暗号)といって、聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌っていました。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、神を信じて仲間と共に歌うことで、悲劇的な境遇を耐え忍びました。また、この歌が聞こえたら逃げる合図だとか、この歌は水に潜って隠れろという合図だとか、そういった意味を持った歌もありました。

数百年続いた奴隷制は、1861~65年の南北戦争の後制度としては廃止になりました。しかしこの後も、人種差別を合法化する法律が残り、黒人の境遇はあまり変わらなかったようです。

第二幕:ステージパフォーマンスへと発展(1870s~1900s)

スピリチュアルズをステージパフォーマンスとして全国に広めたのが、1866年に創設された黒人学校Fisk Schoolの合唱団「Fisk Jubilee Singers」でした(写真)。黒人学校と言っても、この学校は主に、白人主人と黒人奴隷との間にできた子どもたちのために設立された教育機関だったようです。(アメリカでは基本的に、ハーフを含め、一滴でも黒人の血が入っていたら「黒人」と見なされます。)

このFisk Schoolはやがて財政難に陥り、学校のための寄付を募るという試みで、1871年に学生9人を集めてスピリチュアルズの合唱団を結成。彼らは各地を歌って回りました。

当時は、黒人に何か、人としての才能があるとは全く考えられていなかった時代です。Fisk Jubilee Singersは白人聴衆から非常に厳しい扱いを受けることもあったようですが、辛抱強い活動の結果、じきにこの黒人による合唱音楽が知られ、評価されるようになっていきました。1873年にはヨーロッパツアーも成功させました。

この合唱団の活動による資金で立てられた「Jubilee Hall」は、今もFisk Schoolの校内にあります。

第三幕:ゴスペルへと進化(1910s~1950s)

「ゴスペルの父」と呼ばれ、ゴスペル音楽を最初に作ったとされるのはThomas A Dorsey(トーマス・A・ドーシー)です。

1910年代~20年代、ブルースやジャズが少しずつ芽を出し始め、アメリカ発の黒人音楽産業が作られていきました。そんな中、牧師の息子として生まれたドーシーは、始めはブルース・シンガーとしてデビューしました。しかし、1932年、妻子を立て続けに亡くすという不幸が、彼の転機となります。そのときの嘆きを歌った、彼の代表曲「Precious Lord, take my hand」をはじめ、スピリチュアルな新しい歌を数多く生み出す作曲家として、才能を開花させていきました。

彼が書いた曲は、3000曲以上ともいわれています。そしてこの頃初めて「ゴスペル」という呼び方が誕生しました。ブルースで培った音楽性を取り入れた、この新しい音楽は、当初多くの教会から「世俗的すぎる」と反発を買ったようです。それに屈することなく、ドーシーは自作曲の楽譜を持参して精力的に全国の教会を回って普及に努めました。それだけではなく、初の有料ゴスペルコンサートの開催しゴスペル音楽を「商業化」したり、初の黒人による黒人のための音楽出版社設立し、才能あるゴスペル歌手を起用してレコードを出版したりと、自らの手で「ゴスペル」という音楽ジャンルを確立させていきました。

ゴスペルはその後、1930~40年代にはカルテット・スタイルの黄金時代を向かえ、ポップミュージックにも大きな影響を与える音楽へと発展していきます。

第四幕:クワイヤ・スタイルの確立(1960s~90s)

1960年代は「公民権運動」の時代です。黒人というだけで家に火をつけられたり、生きたまま木に吊るされたりという卑劣な人種差別が横行する中、「人としての平等な権利」を求めて各地で大規模なデモ行進が行われました。そして、その活動の中には常に「歌」がありました。デモ行進では、老若男女を問わず大合唱しながら道路を歩いていく様子が、数多く映像に残っています。公民権運動時の代表曲には、「We shall overcome」や「Oh freedom」などがあります。

この時期に、クワイヤ・スタイル(現在日本で最もポピュラーな、大人数で3声で歌うスタイル)が、ゴスペル音楽のスタイルとして初めて登場します。このスタイルの確立に大きく貢献したのは、James Cleveland(ジェームス・クリーブランド)という人でした(写真)。彼はクワイヤのためのゴスペル曲を多数作曲したほか、1968年に初めてGMWA(Gospel Music Workshop of America)という大規模なゴスペルワークショップを開催し、クワイヤスタイルを浸透させていきました。このワークショップは現在でも続いており、今では日本からも大勢の参加者がいます。

その後、90年代にかけてクワイヤスタイルは全盛期を迎えます。全米各地でマスクワイヤ(100人を超えるような大人数のグループ)が誕生し、CDをリリースしては公演を行うようになりました。また、様々なアーティストが自身のクワイヤを結成し、数々のヒット曲を生み出していきました。

第五幕:Hip Hopや白人系音楽などとの融合(2000~)

1993年にデビューしたKirk Franklin(カーク・フランクリン)が、革新的なHip Hop路線を打ち出し、ここからまたゴスペルの新たな時代が始まりました(写真)。「流行りのサウンド」を取り入れた彼の作品は、「教会の歌」という域を完全に越えて、一般のヒットチャートにも登場するようになりました。

公民権運動の時代には黒人のコミュニティは教会を中心に形成されていたと言えますが、現代では、教会に通わない若者もたくさんいます。そんな若い世代にもゴスペルのメッセージを届けようと、カークの後に続いてHip HopやR&Bなどの音楽スタイルでゴスペルを歌うアーティストたちが、次々と誕生していきました。

現代のHip HopゴスペルやR&Bゴスペルは、歌詞をよく聴かないと、ゴスペルなのか世俗音楽なのか判別できない曲も数多くあります。逆に、音楽スタイルがどうであれ、聖書の言葉やインスピレーショナルなメッセージを歌っている音楽が「ゴスペル」である、と言うこともできますね。

一方で「教会」のシーンにも、2000年以降新しい流れが生まれてきています。それまではほぼ完全に「黒人教会」「白人教会」と人種で分かれていましたが、現代では「多文化共生」を理念として掲げる、人種融合の教会がたくさん見られるようになりました。その流れの中で、ロックやポップスのような音楽スタイルで演奏されることが多い白人系の礼拝音楽と、ゴスペル音楽との融合が始まりました。この先駆者のひとりと言えるのが、黒人と白人の両方のルーツを持つアーティスト、Israel Houghton(イズラエル・ホートン)。彼の代表曲「You Are Good」を始め、ロック色の強いビートで歌われる彼の曲は、白人教会でも黒人教会でも、また多人種から成る教会でも広く歌われています。これらの曲は日本人にも馴染みやすく、日本のゴスペル教室で定番曲となっている曲も多くあります。

そしてエンターテイメントの世界でも、ゴスペルが多く登場するようになりました。

私たちにもお馴染みの、90年代の大ヒット映画「天使にラブソングを」をはじめ、映画や音楽ショーなどエンターテイメントの中でもゴスペルが扱われるようになり、ゴスペルはいまや世界中に認知され、誰もが楽しめる音楽へと発展しています。

この先ゴスペル音楽がどのように進化していくのか、楽しみですね!

GQメンバー専用サイト「おうちでGQ Family!」では、「今日の1曲」のコーナーで、大御所アーティストから最新のヒット曲まで幅広くご紹介しています。ゴスペルの基礎知識がゼロからのスタートでも、どんどん「ゴスペル通」になれちゃいますよ♪

なぜ私たちはゴスペルを歌うの なぜ私たちはゴスペルを歌うの

GQにとってのゴスペル

ゴスペルは確かに、アフリカ系アメリカ人によって作られた英語の歌であり、宗教音楽です。 でも、 黒人で英語が話せてクリスチャンでなければゴスペルを歌う資格がないかと言われれば、GQは即座に「NO」と答えます。

ゴスペルの定番曲、Amazing Graceという賛美歌があります。黒人の歌うAmazing Graceは、楽譜通りに歌われる元々の賛美歌とは、全く別のものです。ゴスペル歌手がこの歌を歌うのを、聴いたことがありますか? 感情のままに自由に音を変え、リズムを変え、声を張り上げ・・・正真正銘の黒人音楽ですね。そうやって「自分たちなりの解釈」を肯定しながら作り上げてきたもの、それがゴスペル音楽なのだなぁと思うのです。

もともとこの賛美歌は、奴隷船に乗った奴隷商人だった人が書いた歌。そんな歌が、奴隷制に苦しんだ黒人たちの間で「最も愛されている曲」のひとつになっているというのは、一見考え難いことですよね。でも彼らは、(前項の第1章にある「Code」とも通じますが、)その歌詞に共感し、その歌詞に「自分にとっての意味」を見出すことができるから、歌うのではないでしょうか。この賛美歌をもともと歌ってきたヨーロッパの白人教会の白人たちと、同じ気持ちで歌う必要はないということですね。

ゴスペルは、歌が「歌う人のもの」であることを教えてくれます。

ある黒人歌手はこう言います。 「歌は自由(Songs are free) 。同じ言葉でも、歌う人が違えば意味が違う。歌は、歌った人の込めたとおりの意味になるのよ。」 今日、クリスチャンではない日本人が感動の涙を流しながら歌っているゴスペルは、これまでのアメリカにはない、更に新しい意味を持ったゴスペルかもしれません。でも、それでもいいと思います。私たちの新しい文化を、私たちの手で創っていけばよいのではないでしょうか。

その昔日本を訪れた西洋人は、日本人の生活の隅々にまで「歌」があることに驚いたといいます。日本は民謡や作業歌や祝い歌が世界的に見ても非常に豊富な国なのです。 知っていましたか?カラオケ輸出大国である日本の人々は、昔から集まって歌うことが大好きです。生活に歌が不可欠であったといっても、きっと過言ではなかったでしょう。

今では、そんな「民衆の歌」はほとんど姿を消してしましたね。歌といえば「プロが歌うもの」となってしまい、そのレベルに至らない人は、狭いカラオケボックスしか歌う場所がないような状態です。

歌は本来上手いとか下手とか、楽譜が読めるかとか、お金になるかとかではなく、「歌う」もの。 大勢で一緒に歌えば元気が出ます。前向きな言葉を歌えば気持ちが明るくなります。ゴスペルも、本来はコンサート用の歌ではなく、普通の人たちが集まって歌うための歌です。現代に生きる私たちは、このゴスペルを通して、忘れかけていた「歌文化」を取り戻しているのかもしれません。

ゴスペルの歌詞は、人を愛すること、あきらめず前を向いて生きることを後押ししてくれます。そして一人一人は神様によって生かされている価値ある存在だと、訴えてくれます。それは、誰もが必要としているメッセージではないでしょうか。

教会に一度も足を運んだことがない方も、また教会で育ったクリスチャンの方も、歌う一人一人が自分の歌として、 自分のスピリチュアルソングとしてゴスペルを歌えるような場を創っていきたい。そして、その活動を通してこの日本から、万人のためのゴスペルという私たちのゴスペルを、世界に発信していきたい。それが私たちの活動理念、「Sing in Unity. Live in Peace.」に込められた想いです。

あなたも、今日から私たちの仲間になりませんか!?

(文:ゴスペルスクエア代表 Jenna)

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